第4回コミスペ 「水俣病と三池炭じん爆発(ビデオ講義:原田正純先生)」(2017.5.19)を受けて
Communication Space
コミスぺを送るときは件名を「コミスぺ」とし、本文の冒頭に自分で「見出し」を付け、末尾に(学部・回生・氏名)を書いてください。( )付きの見出しは、私が付けた印です。今日と次回の締切でけは翌日17時まで!
読書レポートに向けて
* 読書レポートに向けて、昨日「沈黙の春」を図書館で借りてきました。前にも一度借りたことがあるけれど、私は難しい文章を読むのが苦手なので内容が全く頭に入ってこなくて、10ページくらいしか読めませんでした。行き帰りの電車で読もうと思って今日はカバンに入れてきたのに、なかなか読む気になれません。早く読んでいきたいです。(N1)
→ この授業では「読書ノート」と名付けているように、レポートというほど大げさなものではありませんので、精読までしなくてよいですよ。「沈黙の春」は化学式や化学・生物学の話も出てきますが、まだ先の話ですから、気軽に読んで下さい。
三池と水俣病の共通点
三池炭じん爆発事故と水俣病の共通点
* 前回の授業を受けて、三池炭じん爆発事故と水俣病の共通点について考えた。事故が起きてから、また水俣病が発生してからの補償についての対応の悪さが共通している。三池炭じん爆発事故後は一酸化炭素中毒者が多数いた。しかし一酸化炭素中毒は後遺症がほぼ無いと信じられていたため、適切な補償が施されなかった。水俣病については、水俣病と認定される基準が非常に厳しかったため、同様に適切な補償が施されなかった。これらの原因は専門家にある。専門家の発言には多大な影響力があるということを専門家は自覚しなくてはならない。知識不足では済まされない。(M1)
→ このテーマは前回のグループワークのお題でしたよね。専門家の影響力が大きいのは確かですが、それを最もうまく利用しているのは実は行政です。専門家を集めて委員会を作り、そこでの結論をもとに政策を行えば、一応、大義名分は成り立つからです。しかし、これにはからくりがあり、専門家を集める権限は行政にあり、学会などの専門家集団からの選出ではないのです。これが行政と研究者間との齟齬を生む原因で、行政の言いなりになってしまう専門家の土壌でもあります。
水俣病と三池炭塵爆発の共通点
* 私は、第4回の授業で比較して扱われていた水俣病と三池炭塵爆発には、誤った知識による判断ミスや被害者側の声を無視したことが招いた対応が遅れた点や、企業にとって不利になるため公害を認めず、責任から逃れようとした点、複数の専門家のうち正しい説ではなく、自分にとって有利になる説を唱える専門家を支持した点などで共通していると思ったが、これらの公害は、どちらも企業が責任から逃れず、正しい知識による判断を行い、被害者の声を聞くことである程度まで被害の拡大は防げたのではないかと感じた。なぜこのようなことが行われなかったのかを自分なりに考えた結果、当時、日本は高度経済成長期であり、発展しつつある産業を公害を認め、そのために操業を停止し、産業が衰退してしまうことを恐れた企業が自分の利益を優先したためだと私は考えた。(S1)
→ 資本主義が登場して以後、長い間、企業が引き起こす労働者や住民の健康被害について企業はその責任を容易に認めようとせず、たとえ因果関係がはっきりしてもその償いをすることには消極的でした。住民への公害についてはたしかに戦後の高度経済成長期という特殊な時代背景の中で日本が世界最大の公害王国になりましたが、労働災害や職業病はそれよりもっと古く、18世紀後半から19世紀の産業革命期にすでに世界中で大問題となったのですよ。
その後、20世紀には世界中で労働衛生や産業衛生という労働者の労働環境や健康を守るという考え方が徐々に定着し、そのための研究や労働安全衛生法などの制定や行政機関の整備が進められました。日本でも1911年の工場法から始まり、1947年に労働基準法(労働省発足)、1972年には労働安全衛生法が定められています。しかし、公害だけでなく労災職業病でも日本の対策は世界に遅れており、後手に回ることが今も絶えません。
三池炭じん爆発事件と水俣病の共通点
* 今回の授業もとても興味深い内容でした。 さて、この2つの事件の共通点ですが、私は被害者への補償の遅れがあると思います。どちらも事件を起こした加害者側(大手企業、工場)があらゆる手で責任を免れようとしていました。彼らには被害を拡大させないようにする責任や、被害者に償う責任があったはずです。しかし、有力論文や権力のある者を良いように利用し、まんまと責任を免れようとした。さらに大手企業であったため政府も大事(おおごと)にしないよう協力しており、その事実は許されてはなりません。このようなことがあったために補償が遅れたのです。両事件の発生者は、被害者の方にはきちんと最大限の賠いをするべきだと思いました。(J1)
→ 公害や労災職業病に対する企業の責任は今や明白ですし、その被害に対する償いをすることは常識ですが、日本の企業はこの責任の自覚が極めて希薄です。しかし、世界では今やCSR(Corporate Social Responsibility)と言って、企業の社会的責任を意識した活動が強調されています。
CSRで最も進んでいるEUでは、2011年に「企業の社会への影響に対する責任」と定義され、そのために企業が取り組むべき社会問題として、人権・労働と雇用・環境問題の他に、地域社会への積極的な関与や従業員のボランティア活動などもあげられています。日本の企業もこれらに立ち遅れているようではグローバルな競争に対応できないでしょうね。
一酸化炭素中毒の後遺症
一酸化炭素中毒の後遺症について
* 今回三池炭じん爆発についての話を聞いて、一酸化炭素中毒の後遺症について間違った知識が広まっていたことを知って驚きました。人間の体に関することなのに、ろくに調べもせずに後遺症はほぼないとされていたなんて、とても恐ろしいと思ったし、専門家の人は責任を持って調べてほしいと思いました。
今回の講義はビデオでしたが、水俣病研究の第一人者といわれる原田さんの講義を聞くことができて良かったです。(J1)
→ ビデオでしたが、実際にお話を聞いているような気持になりませんでしたか。偉い先生ですが、偉ぶったりするところはみじんもなく、いつも分け隔てなく、にこやかに話されるので、患者さんからも学生からも慕われる存在でした。
(CO中毒の後遺症について知らなかったとは…)
* 三池炭じん爆発事故について学ぶのは、この授業が初めてでした。会社側が爆発のあとに適切な行動をとっていないことや、専門家がCO中毒の後遺症について十分に知らなかったことが、信じられませんでした。CO中毒の危険性などとても重要であり、働く人皆にしっかり伝えるべきことだと思いました。(J1)
→ 今なら誰でも知っていますが、本当に信じられないことが起こっていたんですよね。その責任は誰も取っていません。
酸素が1つ減るだけで
* 一酸化炭素中毒の後遺症があることを私も知りませんでした。しかも、その後遺症が一酸化炭素が原因だと分かりにくい症状で驚きました。Oが一個少ないだけで精神に症状が出ることに1番驚きました。『環境と人間』に乗っている、クーリエ炭鉱から助け出された人の図の万歳している人にパッと目がいきましたが、精神症状が出ているのに、原因不明のままそのまま社会に出されてしまっては、社会で生きてはいけないと思いました。文字上ではCO2と似ているCOがこんなに強烈なガスだったとは!衝撃を受けた授業でした。〈C1〉
→ Oが一つ足りないだけでこんなに恐ろしいとはという感想は素直ですね。CO2(二酸化炭素、昔は炭酸ガスと呼ばれました)は安定な物質で燃えませんが、COは酸素が足りない分、不安定なので、すぐに酸素と結合してCO2になります。ということは、体内に入ると酸素を運ぶヘモグロビンと結合して酸欠を起こすわけで、死に至るか脳細胞への障害で後遺症を引き起こすわけです。CO2も無害というわけではありませんが、COのような中毒死や後遺症を引き起こすことはありません。地球温暖化はまったく別のメカニズムです。
企業・行政・専門家の間違い
教科書の信用性
* CO中毒者の後遺症の割合について、日本の教科書では長い間ずっと0.2%と表記されており、それがデタラメな論文によるものだということに驚きました。教科書を過信した結果、後遺症はないと考えて、救える命も救えなかったことは反省すべきだと思います。COガスは猛毒であるにも関わらず、後遺症がないことを疑う人がいなかったことが不思議です。(M1)
→ 今から言えば信じがたいですが、医師は国家試験もあるので、教科書の権威は高いと思います。
海外の人が言ってるから?
* 三池炭じん爆発について、教科書に一酸化炭素中毒の後遺症はない(0.2%)と書かれたことを聞いて笑いが出てしまった。そもそもシリトーの研究方法にも無理があるし、日本でもその論文をただ鵜呑みにした教授に疑問を感じたからである。そこには当時の日本の科学技術の低さもあっただろうが、偉い人の言っていることは絶対正しいとする「偉い人絶対フィルター」があったような気がする。これは実際私も、海外の偉い人や目上の人の言ったことは有無言わず正しいのではないかとバイアスがかかって判断してしまうことがあった。海外だけではなく、偉い人、目上の人が言ったことを噛み砕かずに正しいと即座に判断することは危険でフラットな目線で考えることが必要だと感じた。(C4)
→ 専門家や目上の人の言ってることは自分より知識も経験もあるのだから一応正しいのかなと思ってよいと思いますが、その根拠について納得できるかどうかくらいは反芻してみることが必要ですよね。でも、シリトーの算出根拠について、教科書を書いた先生らもどこまで知ってたんでしょうね?
専門家の間違い
* 講義ありがとうございました。水俣病と三池炭じん爆発を学習して思ったのは、何人かの大学教授等の専門家が公害の事実を隠蔽または過小評価する片棒を担いでいたということです。
専門家自身が調べたことが偶然原因企業の正当化に使われてしまったのか、それとも企業に指示されて報告書等をでっち上げたのかは知らないですが、専門家というだけで私達はその人を信用してしまいがちです。しかし、専門家と言えども人間であり間違いも犯すことがあるということを私達の頭に入れた方がいいのかなと思いました。御用学者と言ってしまえば言い方が悪いですが、そういう人もいるということを感じました。(J1)
→ 御用学者とは「時の政府・権力者などに迎合して、それに都合のよい説を唱える学者」とされていますが、専門家になる前から、それを目指していた人は多分そういないでしょう。後にそう言われるようになった人々も多くは、研究費の獲得と研究者としての地位の確保という専門家として生きる上での必須条件をクリアーするために手を出したか、乗っかかったのだと思います。研究費で分かりやすいのは原子力研究や防衛研究ですが、どう考えても資金を出す側の期待を意識しないわけにはいかないでしょう。一方、地位や権威の確保の面から考えても、各種委員や役職の経歴は大きなプラス評価として目に映ったのだと思います。
企業、政府、専門家の責任
* 前回、前々回の講義で勉強した水俣病と同様に、今回の授業で学んだ三池炭じん爆発についても、企業、政府の対応の遅れはかなりひどいと思いました。
458人の死者の中で大多数の438人がガス中毒で亡くなってしまった事実を考えると、なぜ、もっと早く救助に向かえなかったのか、「入り口付近での爆発だからそれほど問題ではない」と判断した専門家の責任も非常に大きいものだと思います。
人の命が関わる場所ですのでもっとリスクマネジメントに丁寧に取り組んでもらいたかったです。企業、政府、専門家は どこに責任があるかも大事ですが、その後どのように被害を最小限にとどめて、今後同じことが起きないように対策を講じることもそれぞれの役割であることを認識してもらいたいです。(J1.)
→ ひとことで言えば、どちらも「他人事」としか考えなかったからではないかと思います。もし、自分の身内が水俣病やCO中毒に被災していれば、もっと真剣に、文献や勝手な判断だけに頼ることなく自分で考えたと思います。水俣病では実際、後になって、身内の中から申請患者が出たという人たちもいるようですが、当時は他人事と思っていたのでしょうね。たとえ自分の身内は関係なくても、企業や政府に関わる人や専門家は国民のことを考えて対応する責任がありますよね。
国、企業はより良い行動をできたはず
* 水俣病では魚の摂取を禁止したり、三池炭じん爆発ではCOガスの発生を予想し救助を早めるなど、被害を少なくできる機会が何度もあったのに、それを逃し被害がさらに大きくなったことは許しがたいことだと思いました。また、仮病だと疑われたり、なかなか患者認定されなかった人は、本人も家族も本当に辛い思いをしたと思います。(M1)
→ 皆からすると許しがたいことばかりでしょうが、企業や行政は、なぜそうすることがでなかったのでしょうね。
企業と行政
* 今回の事故と前の二回の授業でやった水俣病のことを授業で受けて企業と行政の対策のずさんさがすごく印象に残った。企業は事故の対策として今回のことに関しては合理化も大切だけど、安全対策として何かがあった時は動かないということを徹底させておけば犠牲者が減っていたのにそうしなかった企業には本当に憤りを感じた。行政は起きてしまったからには早急な対応が必要とされる中で、様々な原因説が出て、確かな原因がわからず、不起訴にしたりと被害者側の人たちは本当に辛い状況に置かれてかわいそうだと思った。(T1)
→ 「安全対策として何かがあった時は動かない」とはどういうことですか? ちょっと説明不足ですかね。
トップは「知らなかった」とは言えない
* 今回の授業は、ビデオとパワーポイントの使い方がとても分かりやすくて、より印象深くお話を聴くことができました。
「トップが優遇されることは悪いことではない。ただし、トップは有事の歳『知らなかった』とは言えない。責任をとるための優遇である」という言葉が、今回1番心に残りました。またシリトーの論文の件も、今思えば馬鹿らしい見落としですが、自分が当時CO中毒を学ぶ側だとしたら、はたして見落としに気づけただろうか、と怖くなりました。
トップや専門家ゆえの落とし穴は、環境問題だけに限った話ではないと思います。政治や大学での学習、仕事ひいては部活などにも当てはまると思います。正しいに違いないと思うようなことでも、一旦立ち止まって「なぜ?」と考えてみることが大事なのだろうと、最後の原田先生のお言葉を聞いて思いました。(H1)
→ ビデオ講義がわかりやすかったと言ってもらえると、やりがいがありました。90分の授業を後で編集して3部構成にするのは結構大変でしたが、ポイントをよく理解してくれたようで安心しました。
今日の授業を受けて
三池炭じん爆発は事件でもある
* 恥ずかしながら、私は、今回の授業の予習をするまで、三池炭じん爆発というものを知りませんでした。教科書を読んで、授業を受けて、事故がどれだけ悲惨なものであったかを痛感しました。そして三池炭じん爆発は、ある意味では事件であるというふうにも感じました。なぜなら、管理者や専門家が炭鉱での爆発にもかかわらず、CO中毒に対しての考えが甘かったり、誤った知識を前提にしていたりしたからです。そして、水俣病という過去の教訓を活かせていない、これは非常に残念なことだと思います。事故の後の対応がまずい、というのはどこの企業でもつきまとう問題なのでしょうか。(J1)
→ やむを得なかった事故では決してありませんよね。炭粉を掃除していなかったり、救援に行くのが遅かったり、後遺症を放置したりと、二重三重の事件を積み重ねて、たくさんの死者や中毒者を出したのですから、明らかに死傷事件ですよね。
事故後の対応がまずいのはどこでも同じかとのことですが、事故を小さく見せようとしたり、因果関係の確定を遅らせて責任逃れをしたり、補償を少なくしようとするなどの行為は多かれ少なかれどこでも見られます。しかし、水俣病や三池炭じん爆発やこの授業で取り上げる事件はどれも典型的な事例であることは事実です。
犠牲の上の発展
* 水俣病も三池炭じん爆発も、同じ高度経済成長期に起こったことで、その時代というのは何よりも成長することが重要で、そのためなら多少の犠牲は仕方がないという考えがあったのではないかと思う。実際に日本は世界的に例を見ないような目覚ましい発展を遂げ、戦後復興を成し遂げた。僕自身、その話をきくと誇らしく思うし、日本は素晴らしい国だと感じるが、その発展の裏には利益第一主義の犠牲となった人がいることを改めて感じた授業だった。今もしそのような事件が起これば企業の責任はとても厳しく追及されるが、あの時代は国民全体が経済発展へと突き進んでいる中、田舎での事件にメデイアやそれを支える民衆が関心を寄せなかったため今でも解決しないような問題にまでなってしまっているとおもう。(M1)
→ あの時代は特別な時代だったからではないかと思う人は少なくないでしょうが、水俣病が終わっていないだけではなく、公害も労災職業病も終わっていないことを忘れないでください。それは水俣病などの教訓が今も生かされずに同じ過ちが繰り返されているからです。「あの時代だから」では済まない問題が今も続いているのですよ。
歴史を感じます
* 今日原田先生の講義をビデオで見ました。原田先生は現在既に亡くなられているのを知り、水俣病研究がどれほど長くにわたって行われているかを感じました。水俣病を始めとする公害問題は教科書の中だけの出来事で自分には関係の無いものと捉えてしまっていましたが、公害問題について第1線で活躍されていらっしゃった先生の講義を聞くことで、身近なものそして今でも解決していない問題と捉えることが出来ました。そしてどうしたら解決できるかどうしたら再発防止できるかについてもう少し自分の中で考えるきっかけにもなりました。(N1)
→ 初めてのビデオ講義でしたが、目の前に先生がおられなくても実感の湧く講義だったでしょ。20年前にこの授業で先生の講義を受けた医学生で医者になった人たちは先生の思いをきっと引き継いでくれていると思います。あなたもそういう看護士になってください。
講義を通して思ったこと
* 水俣病についても三池の炭じん爆発についても企業は責任逃れに必死で、原因究明ができているにも関わらずそれを打ち消すような新たな学説を打ち出してきたり、なかなか被害者に対して補償をしなかったり対応の遅さに驚きました。炭じん爆発での、救護隊の申し出を断った話にはさすがに呆れました。
さらに当時は、一酸化炭素中毒の後遺症の存在がまだあまり知られていなかったことや、その原因として正確でないデータがずっと使われ、信用されていたことに驚きを隠せませんでした。(J1)
→ 三池の話はもう過去の話として取り返しがつきませんが、水俣病ではいまだに古い病像論がまかり通り、大脳皮質障害による感覚障害を否定した認定基準を40年間も死守し続けています。最高裁で否定されてからでもすでに13年間です。
(授業を受けて)
* 今回の授業を受けて、私は三池炭じん爆発事故をほとんど何も知らなかったのですが(、)利益を増やそうと労働者の安全のために必要な人員を減らし(、)事故が起きた後も即座に救助を開始していれば一酸化炭素中毒で亡くなった人は間違いなく減らせたであるはずなのにせず、原因究明に関しても企業側が責任をのがれようと炭粉が積もっていたことを認めず、また一酸化炭素中毒による後遺症に関してはアメリカの0.2%しか発症しないというあり得ない論文を信じ(、)再び被害にあわれた労働者を裏切ることになり(、)本当にあってはならないことだと思いました。この事故はおこしてはならない事故を起こし、最小限に抑えなければならない被害を拡大させ、最大限の償いをしなければならない被害者に対してしなかった点で水俣病と似ていて(、)ただ知るだけでなく好奇心を持って自分の頭で考えないといけないと思いました。(M1)
→ 原田先生の講義内容を二つの文章に要領よくまとめたようですね。ただ、先頭の文章の原文では、読点が3か所しかなく、読解に手間取りましたよ(笑)。
悲劇を伝えていくこと
* 水俣病などの四大公害病については教科書に載っていたりするため、ある程度の知識があって無責任な国や企業に対して、被害者の人達が闘ってきたことを知っていた。しかし三池炭塵爆発については聞いたこともなかった。これもまた、無責任な国と企業のために被害にあった人達を虐げていた。おそらく自分の知らない、似たような事件があるのだろうと思う。同じような悲劇を繰り返さないよう伝えて、どうするべきだったか考えて行くことが大切だと思う。(J1)
→ なぜ、公害と労災職業病という別々の事件で同じような悲劇が繰り返されるのかが今回のテーマでした。
医学部で学ぶものとして
* 今回の講義をしていただいた原田先生は医師であり、医学部生として身近に感じるところがありました。
その一方で、シリトー論文などという非常にエビデンスレベル(結果の質)の低い論文を引用したり、会社や国側に都合のいい基準を作ったり、裁判でそのようなことを述べたりしたのもまた医師であったわけです。
水俣と三池に限らず、多くの公害には医師が関わっています。特に、患者の認定は医学的見地から行われるものです。そのような患者の人生を左右しかねない問題において加害者を助けるような行動をとるのではなく、原田先生のように患者の側に常に立てるような医師になりたいと思いました。(本来は当然のことなのですが)
(M1)
→ 医学部の人たちにとって、今回の講義はまさに他人事ではなく、将来、自分が当事者になるかもしれない身近な問題と感じたことでしょうね。病気を治すのが医師の役目ですが、治せない病気を前にしたとき、どうすればよいのかというのが原田先生の問いかけです。後の授業でも話しますが、「病気じゃないと言われて怒りだす水俣病の未認定患者」という揶揄を込めて書いた週刊誌もあります。すぐにわからない病気を切り捨てるのか、患者と一緒になって少しでも病気を和らげる道を探すのか、医師として取るべき道は自明だと思いますが、患者のための医師でなく、自分の名誉や欲得を優先した医師もいたんですねえ。
医学者達の責任
* 三池炭じん爆発の事故が起こってしまった時代には、一酸化炭素中毒の症状に対する理解に誤りがありました。シリトー論文にあるとおり、一酸化炭素中毒では急性中毒で死亡するか完全に回復するかのどちらかであり、後遺症が残ることはまれである、という認識を当時の医者はもっていたと思います。後遺症の危険がないという先入観をもって、おそらく他の研究者達も研究をしていたので後遺症があることに気付くのが遅かったのだと思います。私が医者になったとき、そして公害と遭遇してしまったとき、間違った研究に惑わされないくらい患者さん一人一人を診なければいけないのだと感じました。(M1)
→ その通りです。目の前の患者の症状が習ってきた知識や過去の文献と違うとき、どうするかというまさに実践的な課題ですよね。
批判的思考
* 今回の授業で一番印象に残った話は当時、どの医学書を見ても一酸化炭素中毒の後遺症はほとんどなく、発症率はおよそ0.2%とされていたという部分であった。私は、私たちが普段、無意識かつ無際限に信頼しがちであるとてつもない権威をもった学者や彼らが執筆した教科書などが実は相当にいい加減なものであり、また彼らの築き上げた象牙の塔がいかに脆いものであるかを思い知らされた。私は今まで教科書やその他本に書かれていることは基本的には、全面的に信用しがちであったが、この話を通じて大学の授業や教科書などを批判的にみる態度や根拠となる先行事例・参考文献を精査することの重要性を強く感じた。(J1)
→ 批判的思考の重要性はその通りですが、「教科書などが実は相当にいい加減なものであり」とまで言うと、ちょっと言い過ぎかな(笑)。これほどひどい例はそんなにないと思いますが、例えば「四大公害は過去の事件でもう終わった」とか「水俣病患者は約3000人である」などと書かれたら、すぐに見抜けるかな?
常に人が言ってることを疑う?
* 今回の授業で思ったことは学者だからと言って彼らが100パーセント正しいとは限らないこと。常に人が言ってることを疑うべきであると思いました。教授には責任を持って学生に正しことを教えることが求められる、それを監視役とするのが私たち学生であることと思いました。(L2)
→ 常に疑うというよりも自分で正しいと納得できるかどうか考えようということです。監視役というのは受け身では務まりませんよ。
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